台所が政治を変える3-「お任せ民主主義」と「市民総評論家」からの脱却を

――選挙を前にして自ら考えたいこと――

いよいよ北杜市の市議会議員・市長選挙が近づいてきました。身近な選挙はなかなか厄介で、支持をするといっても様々な要因がそこには含まれています。個人的に知り合いである、同級生である、地域で議員を出さなければというプレッシャー。必ずしも「政治的な資質」といえるもの、あるいはその人や党の「政策」で選んでいるとは限りません。しかし、そういうことを繰り返していては、市政はよくなりません。

「お任せ民主主義」になっていないか?

多くの人が4年に一度の選挙に投票し、議員や市長を選んでしまえば、後は自治体政治を議会や行政に任せてしまい、さまざま問題が起きても、不満や不安であっても「まあ、仕方ないか」と思いながら、そのくせ裏では「**はダメだ」と批判して済ませてきたのではないでしょうか。しかし、そのような「お任せ民主主義」と「市民総評論家」では地域はよくなりません。

選挙はゴールではなく出発点

「選ぶ側のレベルに見合った議員や首長しか選べない」とよくいわれますが、市民がしっかり選ばれた人たちを監視し、緊張感のある状況を作ることによって、政治家たちの行動も規律されます。質の高い政治が行われるかどうかは厳しい「市民の目」があるかどうかにかかっています。そして、選挙時には選ばれた人たち個々の4年間の活動を評価することも必要です。従って、選挙はただ単に4年に一度のイベントではなく、選んだ側の市民のスタンスも同時に問われているのです。選挙から選挙へ繰り返すそのサイクル全体が選ぶ人の責任でもあります。選挙はゴールではなく、出発点です。

特に今日のように財政問題やら人口減少、高齢化、地域経済の低迷など「持続可能性」を脅かすような地域課題を抱えているときはなおさらです。こういう時こそ、将来を見通すような視野を持った人が不可欠です。「地域社会の将来をどう考えるか」や「これからの自治体政治のあり方をどのようにしていくか」といった視点からみて、政治家たちがしっかりした考えをもっているかどうかがとても大切です。

市民は選ぶ側の責任も問われている

もちろん、通常自治体の政治は議会と行政によって行われていますので、優れた議員、首長を選ばなくてはならないのは当然のことです。しかし、だからと言って議会や首長に「白紙委任」したわけではなく、選んだ側も常に市政とのかかわりを意識していなければなりません。法律にも自治体の政治には直接民主主義のしくみが埋め込まれています。条例の制定改廃の直接請求、議員・長の解職請求、議会の解散請求などがそれですが、自治体独自でも市民参加を行ったり、住民投票条例を作ったりと積極的に市民が自治体政治にかかわることができるよう努力がなされています。市民には「お任せ」ではなく、選ぶ側としての責任も問われているのです。

著者紹介・西寺雅也氏

名古屋学院大学経済学部総合政策学科教授
山梨学院大大学院非常勤講師
前多治見市長

本年3月まで、山梨学院大学教授として山梨を拠点に、北杜市内にも市民講座の講師として度々通われ、この地への理解も深い。