市民投書ー夢であいましょう

 ペット・ロス

この春、愛犬が死んだ。共に暮らした14年と8ヶ月。例年になく厳しかったこの冬を通り抜け、八ヶ岳山麓にようやく遅い春が訪れようとする時、その春の暖かい陽の光や、やわらかい空気にバトンを渡したかのように逝ってしまった。

15年前、私たちの美術館を訪れる人々を温かく愛想よくお迎えする看板犬にと勝手なイメージを抱いて飼い始めたのだが、これが全く期待に反して、見知らぬ人には必ず吠えてしまうのでお客様の前には出せなくなってしまったのである。これは常に家族を守るために警戒を怠らないという行動だったのだが、いずれにしても美術館の看板犬にはなれなかった。それでも私たち家族に対しては、極めて愛情深く、かつ従順であった。又、人間に対して余りご機嫌伺いすることのない孤高の雰囲気があり、そのことで逆に家族の中では一番の存在感があったように思う。

愛犬の死は私たち家族に痛い悲しみを与えた。私自身も、その死から数ヶ月経った今でも、時折その痛い悲しみに襲われることがある。人の死に直面してもめったに感じたことのないこの心の悲しい痛みは何なのか。

人と人との間の良好な関係は、お互いの愛情や信頼によって維持されるが、時としてそれ以外の複雑な感情に左右されてしまうことも多く、良好な関係を継続、維持するのは本当に大変である。これと比べると人とペットの関係は、はるかにシンプルでしかも真っすぐである。人と人との間にあるような、恨み、妬み、憎しみなどの感情はないと言っていいたろう。あるのは、「愛」と「信頼」の通い合いのみで成り立っている純粋な関係なのである。これは人間の関係で言えば、お母さんと幼子との関係に近いのだろうと思う。だから、愛犬などの死に直面した際の精神的ダメージは、それこそ『ペット・ロス症候群』という病名があるくらい深くて大きいものなのだ。

太古の昔から、犬は人と共に暮して来た。これは、時として邪悪になったり、乱れたりする人の心が、平穏で良好に保たれるようにと神様が人間に与えてくれた大きなプレゼントだったのかもしれない。

小淵沢絵本美術館・望月平

市民投書 – シルバー川柳

最近、川柳にはまっている。川柳といえば毎年必ず話題になるのが、「サラリーマン川柳」だ。サラリーマンの今日的悲哀を詠ったもので人気を呼んで来た。

ただ、私が今回突然、川柳にはまったきっかけは、昨秋出版された「シルバー川柳」(ポプラ社)だ。この本、あっという間に版を重ね、大ベストセラーになった。因みに副題は『誕生日 ローソク吹いて 立ちくらみ』この3月には早くも続編「シルバー川柳2」も出た。『「アーンして」むかしラブラブいま介護』が副題だ。

今や四人にひとりがお年寄りという超高齢社会のニッポン。かく言う私もはるか昔にその一員となっている。年金に医療に介護にと、お国の財政の穀潰し(ごくつぶし)となっている我々シルバー世代を見る世間の眼はだんだん冷たくなってきている。ただこの世代、金は持っているということで家族にその金をあてにされるのは勿論、借金大国のお国の政府からも財布にてを突っ込まれかねない状況なのだ。「戦後の焼け野原から働きづめに働いてこんな豊かなニッポンをつくりあげて来たのは俺たちだ。年金保険料も健康保険料もちゃんと納めて来た。なんか文句があるか?」などと居直ってみてもはじまらない。まごまごしていると後期高齢者などと仕分けされ、あの世行きの待合室に入れられてしまう。

こうなったらもう残りの人生、笑いとばして行くしかない。そこで登場したのがこの「シルバー川柳」だ。余談だが、我が国には「落語」といい、この「川柳」といい、アナログの極みとも言うべき素晴らしい大衆向けのユーモア芸術が江戸時代以来ずっと息づいている。日本人でよかったと思うのは何も食べ物のことだけではない。それで私も同じ日本人だからということで虚空(こくう)をじっとみつめてみたがなかなかいい句は浮かんでこない。それでもようやく、昨年末から世の中の空気が突然入れ替わったことに思い至ると、頭の中で川柳のリズムが動き出した。生来、政治やこれを伝えるメディア(=マスコミ)を余り信用し過ぎるとろくなことはないと世を拗(す)ねて来た性格がこれに敏感に反応し、5・7・5が湧き出して来た。

アベノミクス 老いも若きも ハイテンション

回春に 新薬出たぞ アベノミクス

手を挙げて みんなで渡ろう アベリスク

TPP みんなで渡れば こわくない

おあとが宜しいようで……

以上ハイカイ寸前で八ヶ岳山麓に棲む独居老人のひとりごとでした。

(詠み人知ラズ)