「SL C56126」の歴史ー「SL」が泣いている

小渕沢小学校の校庭の西、桜の木の下には蒸気汽関車「SLC56126」がいつも静かに眠っている。春桜の満開の季節には、この黒い汽関車はピンクの桜を背景に威厳をもって下の道を通る人等を見下(おろ)している様に思えるのだ、この場所は普段あまり町民の目にふれない所で憐れの様にも思えるのである。

この「SL」は昭和五十年三月六日「優良なる管理をする」との誓約のもと「九十九年間貸與(たいよ)」と云う事で國鉄より小渕沢町に引渡されたものである。

その経緯(いきさつ)は富士見町出身の小林潤三氏が「寿旅館、小渕沢山荘」を経営する傍、十一年間にわたり編輯(へんしゅう)し町内外への無償配布した「たかはら新聞」全五十二号の内の三十号に収録されている。〈縮刷版あり〉

昭和二十八年当時財政難で四苦八苦していた町の観光資源として開発計画の中「SL」の話題が台頭し関係官庁へ働き掛けたが進展せず立消になってしまった。その後昭和五十一年國鉄から國鉄休暇村を財産区区有林に建設との打診があり町でもこれが誘致に動き、糸がつながり「SL」の貸與(たいよ)に進展したのである。しかし設置場所と観光面の接点がなかなか決まらず文化会館の庭へ、そのうち赤く錆て来て、國鉄の指摘「?」により清掃、塗装、注油等が施こされ現在地に安住の地を得たのだと思うのである。そこでこの「SL」の経歴を辿って見よう。

昭和十三年三月三菱神戸造船所で誕生(製造)し札幌鉄道管理局岩見沢桟関区に配車され北海道の広野で四年間活躍する。同十六年八月には鹿児島鉄道管理局に転勤、同二十四年十二月から大分鉄道管理局延岡桟関区にて三年間と戦中戦後十二年間九州で活躍した。昭和二十七年長野鉄道管理局飯山桟関区、同三十九年十月松本桟関区に、同四十年四月上諏訪桟関区に、同四十七年四月長野運転所と十余年間長野鉄道管理局内で精勤した。又同四十八年二月米子鉄道管理局浜田桟関区へと文字通り北は北海道、南は九州と「東西奔走」その全走行距離は一五六、八〇三、五kmと云う。昭和五十年二月國鉄工作局車輌課より二級廃車となり輝かしい功績を残して現役を引退したのである。昭和五十年三月三日山陽本線浜田桟関区より時代の変遷に負い目を感じながら電気桟関車に牽(ひ)かれて同三月六月十二時四分、甲府運輸局長以下國鉄役員、渡辺小渕沢駅長、小林茂良町長、五味農議長、中山観光協会長他多くの町民の出迎裡(うち)に小渕沢駅ホームに到着、引渡式のあと一まず小海線の車庫に納められた。その後は前記の経過を経て現在地に眠っているのである。

町民の皆さんにはこの桟関車の使命、経歴等を認識の上末永く愛情の目を向けられん事を希望するのである。

(高野・清水競)