リレーエッセイ2 山麓のこの町で暮らすー里山の林の中、谷川の水が流れるー

今から50年前、私が24歳の時、東京オリンピックが開催されました。いい時代が来るのかと期待していましたが、翌年には不況が襲い、証券恐慌がおこり、石油ショック、公害と続きました。サラリーマンの生活を支えている大きな装置もあっという間に崩壊するのだということを目の当たりにしました。

自主・自立の道を創っていかなければと土地探しを始めました。

40年近く前、縁あって小淵沢に土地を得、小屋を建て、いざという時のためにせっせと通い続け、生活の基盤を作ってきました。

15年前、夫が転職をし、同時に生活のために家族で「ほうとう」の店を開きました。

40年近く前の、終の住処に決めた小淵沢町はどんなだったかとお思いでしょうか。駅前商店街の真ん中には、町の知性と品格を表す本屋さんがあり、個人商店の皆さんは居住者を親身になってお世話して下さり、最前線で町の方々との交流を広げて下さいました。車を持たない「足なし」と言われながらも、美しい山河の中で満ち足りて生きてこられました。

小学校の運動場を使って行なう夏祭りと花火。武田節で踊る女性陣の踊りの上手さと生きる自信に溢れた姿、住民の熱気、財の豊かさと文化度の高さに驚いたものです。

その後、いつの間にか都会の商業主義が押し寄せ、ホテル、スーパー、コンビニと八ヶ岳南麓リゾート地として有名になりました。花火も観光資源の一つとなり、主役だった住民も観客に変わりました。バブル崩壊などいろいろありましたが、住民の方々の洞察力と気概で、それでも影響を最小限にとどめたように見受けられました。

しかし、この頃、あちこちで何か都合の悪いことを隠すかのごとく、少子高齢人口減少が叫ばれるようになりました。終の住処を守るという住民一人一人の思いが総意となれば、解決策は生まれると思います。小淵沢の場合、40年前の夏祭りを思い出し、一人一人が裁量権を持てる仕事を作り出し、その上でネットワークのできたあの時代に戻ってみてはと思います。

この町には医院、薬局、個人商店、インフラを支える個人営業の方々と町の歴史を背負って、気概を持って町を支えて下さっている方がいらっしゃいます。40年前に15歳ぐらいだった方々も今や、しっかりと中堅となり支えてくれています。慌てずに、みんなで協力して本格的な自治の町を作り出していただきたいと願っています。

小淵沢町・遊景社・後藤俊子