まちこぶ リレー・エッセイ3 ーありがとう、小淵沢ー

横浜から小淵沢に移住してあっという間に二十六年が経ちました。私と妻は代々横浜で暮らし、親戚中が横浜周辺に居たので、田舎が無く、とても田舎暮らしに憧れていました。横浜に暮らしているときも自然の中で過ごす時間が大好きで、八ヶ岳の厳しい大自然とは比べものにならないような規模でしたが、林の中をハイキングするだけで充実感は有りました。

小淵沢で暮らし始めたきっかけは、とても偶然なことでした。スキーが大好きだった私と家内は当初スキー場近くで小さな宿(ペンション)を開業する予定でした。北海道や黒姫高原等で近くに大きなスキー場がある場所に土地探しに良く出かけました。しかし、ニセコでペンションを経営している知人から「スキー場で始めたらウインターシーズンは仕事が忙しくて、自分たちがスキーどころではなくなるから、夏型のリゾート地で開業しなさい。横浜育ちの二人が雪国暮らしは苦労しますよ。」とアドバイスされたのです。この言葉は本当に心に響きました。それから横浜から2~3時間ほどで来られる八ヶ岳に通い始めました。特に風景が北海道に似ていた野辺山高原のペンション用地を探して、よく通いました。なかなか希望の土地が見つからずにいたのですが、地元の親切な方から紹介していただいたりとかで、ようやく気に入った土地が購入出来そうになった最中、地主の知人からの横やりが入り、いい話は流れてしまいました。ようやくこぎ着けた話だったのでかなり二人で落ち込んでしまいました。

その後ペンションコンサルトの方から「小淵沢はどうですか」とアドバイスを受け、全く候補に上がっていたかった小淵沢を初めて訪れたのでした。とても地の利の良い場所だったので、開発が進み、自然など残っていないと思いこんでいたのですが、豊かな自然を前にして、車でぐるぐると廻っただけで、家内も私も「ここだ」と直感したのでした。赤松林の中に、とても明るくハイセンスなお店とか別荘が点在し、気持ちが晴れ晴れしたのを覚えています。

二歳になる娘のこれからの生活のことを考えると、これ以上の選択肢は思いつきませんでした。今、娘も独り立ちし、これからは自分たちの時間を大事に有効に使っていこうとしています。

初めて訪れた時の直感は今でも間違っていなかったと、確信しています。

ありがとう小淵沢。

(ペンションあるびおん・市川進)

 

リレーエッセイ2 山麓のこの町で暮らすー里山の林の中、谷川の水が流れるー

今から50年前、私が24歳の時、東京オリンピックが開催されました。いい時代が来るのかと期待していましたが、翌年には不況が襲い、証券恐慌がおこり、石油ショック、公害と続きました。サラリーマンの生活を支えている大きな装置もあっという間に崩壊するのだということを目の当たりにしました。

自主・自立の道を創っていかなければと土地探しを始めました。

40年近く前、縁あって小淵沢に土地を得、小屋を建て、いざという時のためにせっせと通い続け、生活の基盤を作ってきました。

15年前、夫が転職をし、同時に生活のために家族で「ほうとう」の店を開きました。

40年近く前の、終の住処に決めた小淵沢町はどんなだったかとお思いでしょうか。駅前商店街の真ん中には、町の知性と品格を表す本屋さんがあり、個人商店の皆さんは居住者を親身になってお世話して下さり、最前線で町の方々との交流を広げて下さいました。車を持たない「足なし」と言われながらも、美しい山河の中で満ち足りて生きてこられました。

小学校の運動場を使って行なう夏祭りと花火。武田節で踊る女性陣の踊りの上手さと生きる自信に溢れた姿、住民の熱気、財の豊かさと文化度の高さに驚いたものです。

その後、いつの間にか都会の商業主義が押し寄せ、ホテル、スーパー、コンビニと八ヶ岳南麓リゾート地として有名になりました。花火も観光資源の一つとなり、主役だった住民も観客に変わりました。バブル崩壊などいろいろありましたが、住民の方々の洞察力と気概で、それでも影響を最小限にとどめたように見受けられました。

しかし、この頃、あちこちで何か都合の悪いことを隠すかのごとく、少子高齢人口減少が叫ばれるようになりました。終の住処を守るという住民一人一人の思いが総意となれば、解決策は生まれると思います。小淵沢の場合、40年前の夏祭りを思い出し、一人一人が裁量権を持てる仕事を作り出し、その上でネットワークのできたあの時代に戻ってみてはと思います。

この町には医院、薬局、個人商店、インフラを支える個人営業の方々と町の歴史を背負って、気概を持って町を支えて下さっている方がいらっしゃいます。40年前に15歳ぐらいだった方々も今や、しっかりと中堅となり支えてくれています。慌てずに、みんなで協力して本格的な自治の町を作り出していただきたいと願っています。

小淵沢町・遊景社・後藤俊子

 

まちこぶ リレー・エッセイのスタートにあたり 安全安心の食品とまちづくり会社

平成18年1月(公)㈲まちづくり小淵沢と同年弊社直営のショップまちこぶが、小淵沢商店街に産声を発しました。想いは6年間に及ぶ「まちづくり議論」を住民、商工会、町の協働作業により、「まちづくり活性化計画案」をまとめ、その中の一事業がショップまちこぶです。生活の基本である、食の安全安心へのこだわりを柱に、地域住民や来訪者による情報交流交差点の拠点でもあるようにと、取り組んで来た生活ショップです。昨今、食に対する社会の現状は、生産、流通、消費の全体像の質を直視すると、もう一度立ち止まって見直す必要性を、改めて考えさせられる事態の連続です。住民生活のための理想のショップづくりには、更なる努力と工夫が必要と考えています。

まちづくり小淵沢は将来のビジョンを、道徳心の伴う地域に必要な経済活動の環境づくりを意識し、持続可能な循環型社会づくりを目指し、住民による住民のためのまちづくり、「まちづくりは人づくり」「一人はみんなのために、みんなは一人のために」を理念に、社内6部門の活用により、多岐に渡る活動が地域貢献になり、まちづくりの成果として結びつくものと考えています。市民のためのまちづくり会社であり、自立と自律をまず意識し、市民のみなさんと共に、運営経営する使命を背負っている会社なのです。老若男女、市民が希望を持てる良質なまちづくりは、市民一人一人の前向きな参加が、基本的に必要であると願い考えています。

国、地方自治体、住民という各サイドの取り組み、連携を意識しつつ、地域が一体となるための中間支援組織としての立場を、国より与えられています。将来に向けて、しがらみ社会から絆社会へ等、多様な市民のコミュニケーションづくりに、より一体感のあるまちになるよう、取り組んでまいります。

まちこぶ 代表 小林伸一

※(公)とは資本のあり方からも、住民主導で行政や公的団体との協働組織であることを、表現するものです。

 

リレー・エッセイ

この地域で、仕事をしている方々が、どんな思いでどんなことに取り組んでいるのか、綴っていただくものです。それを書くことで、読むことで、地域の相互理解を目的としています。

まちこぶ リレー・エッセイ 1ー山麓のこの町で暮らす

八ヶ岳の風に吹かれて

八ヶ岳山麓の森の中に絵本の美術館を開館して早二十一年。美術館経営の傍ら、春先からの庭手入れや山菜採り、さらには秋から初冬まで続くきのこ狩りなど山や自然の恵みと戯れる日々を送っている。これはそれまで三十年続いた東京での生活を考えると想像もできない大きな変化であった。

変化と言えば、私たちがこの山麓の暮らしていたこの二十年間に起こった世の中の大きな変化は何だったろうか?バブル経済崩壊後、新しい方向性を見出だせぬまま低迷を続けた日本社会の中で、私たちの仕事はおろか日常生活までも大きく変えてしまったもの― それは携帯電話やパソコン、インターネットなどによる情報通信手段の飛躍的発達であり、それによる高度情報化社会の到来であろう。今や私たちは全く見ず知らずの人とコミュニケーションを瞬時に行うこともできるし、ちょっとした指先の操作であらゆる情報を手に入れることもできる。私自身は携帯電話やパソコンを持たずにいるが、その代わりにもっぱら娘たちを通した’遠隔操作’で、知りたい情報をパソコンで調べてプリントアウトしてもらったり、欲しい本などがある場合には、インターネットショッピングで取り寄せてもらったりもする。しかしながら、一歩外に出れば豊かな自然が広がるこの高原の町での暮らしの最大の収穫は、そうした物や情報の波に溺れずに済む生活を獲得できたことである。物や情報は、必要な時、必要な分だけあればいいと思えるようになったことである。静かな森の中で絵本に描かれている豊かな想像力あふれる世界や、人間本来が持つ温かいコミュニケーションの世界に触れていると、等身大の自分、あるがままの自分が見えてくる。

山麓にはこれから厳しい冬が訪れる。春が来るまでは次第に人の足も遠のく。それでも新しい出会いはある。この冬はどんな人が私と私の家族が営むこの小さな美術館に訪れてくれるだろうか。

小淵沢絵本美術館・望月平