まちを学ぶシリーズ4 – こだわりの小淵沢の歴史

小淵沢村の誕生

 

小淵沢町に最初に鍬おろした人々は、二つの地域を形成していた。この二つの地域は、矢の堂―大宮神社の縦状の尾根(尾根地区の地名の由来)である分水嶺の地形によって東西に分けられている。ひとつは、井詰(いづめ)湧水(すずらん池の北側)から自然流下した甲信アルミ南一帯の流域を開発した地域で、もうひとつは、根山湧水(花パークの北側)から自然流下した川は小淵沢小学校西側に流れ、その流域一帯を開発した地域である。

ところが、「正中元年(1324)水源地ヨリ水田灌溝口堀リ 元野之高嶺中央ヲ割り水路ヲ通ス(中略)赤松家蔵ム書中ニ見エタリ」とあり、この井詰用水の横堰の開削が行われ、旧小淵沢全域に水田用水が行き渡った。この横堰を通称、「五百石堰」とも言われる。

自然流化の自然集落から横堰の水路によって結ばれた村作りが始められた。尾根区内に「じょうしょう村」「ごんだい村」の地名が慶長検地帳に見えて、少なくとも室町時代には散在していた村があり、鎌倉時代においても湧水の自然流下する水域に、こうした小集落の村が多く散在していたと思われる。東西に二分されていた地域は同じ井詰湧水の恩恵を受ける共同体となって、一つに地域として統合されて行った。小淵沢村の誕生である。井詰湧水を横堰によって開削する水田開発事業は、旧小淵沢地内に散在していた集落を結合し、小淵沢村の形成に向かわせる重要な原動力をもっていた。

 

天神森について

 

天神森は、この尾根の北端(五味克彦氏宅裏側のカラマツ林の場所)に位置し、「天神森」の地名が残されている。この尾根の南端にも「天神前」「西天神」の地名がある。南北の二つの場所で天神が祀られていた。統合以前において、天上から降りてくる神として、「天神」を祭神として祀る信仰を両地域から集めていた。東西に二つの地域に分ける境界としての尾根は、宗教的意味をもち、神を祀る神聖な場所であり、両地域の信仰の軸となっていた。

その後も、天神森―昌久寺―矢の堂―大宮神社―天神前―八幡山(旧高福寺跡)などの寺院・神社や地名が一直線上に置かれるようになった。

『甲斐地誌略』(県立図書館蔵)に、上庄村の西一帯の地を天神森と称し、口碑に日本武尊命が東征の帰途に休息し、この霊跡に社を創建し山宮天神と称し、その後天神森の社(やしろ)は北野天神に移されたという記述がある。

天神森は、「山宮天神」が祀られた神社が置かれた場所であった。祭神としての天神は日本武尊命(やまとたけるのみこと)に置きかえられて、のち久保地区の北野天神社に祭祀が移転され、菅原道真が祭神に加えられた。祭祀権者は神主小井詰氏であった。

「小井詰氏伝承」に大宮神社に小井詰氏の墳墓があると伝えられていることから、小井詰氏が山宮天神と大宮神社の祭祀を司る神主であった。「山宮」と「大宮」は一対の関係で、民俗学でいう〈山宮―里宮〉の関係である。春に山から里に下り田の神となり、秋に里から山に帰り山の神になるという、農耕の神が春秋に往来する考えである。

神主小井詰氏は、山宮天神の祭祀者として尾根上の〈山宮―大宮〉の祭祀軸を統括し、同時に政治権力者として井詰湧水一帯に支配を及ぼした。やがて井詰湧水による地域開発を進めながら勢力を扶植して行き地域支配者となり、旧小淵沢村を統合する政治的役割を果たした。

次回は、小井詰氏に伝わる伝承から北野神社ついてお話しをします。