まちを学ぶシリーズ7 水原 康道(高福寺住職)ーこだわりの「小淵沢」の地名について(二)

小渕沢の地名の由来を小淵沢町の南端である富士見町の県堺・国界橋付近から長坂町境までに「加倉」「河倉」「鹿倉」の地名から考えてみる。その名称は違うが、その呼称は「カクラ」と言われ、意味は「狩倉(かりくら)」のことである。同一の地名が約五㎞程続くという長い地名である。「カクラ」は七里ヶ岩の崖状で、「大深沢川「小深沢川」など大小の沢で刻まれた地形で、釜無川に接している。

「カクラ」とは、狩猟をする場所を意味する。あるいは狩猟をする集落を意味し、「カクラ」と名前のつく村名もある。沢に刻まれた崖状の地形に「カクラ」の狩猟地名があるのは、その場所が狩猟する最適地(さいてきち)であったからである。勢子(せこ)が獣を沢に追い落とし、沢の出口に通り抜けない柵などを作って追い詰めれば容易に射止めることができる。こう考えると、「沢」の地形は最高の狩猟場となる。

このように考えるならば、「小渕」の語源を「コブチ」の狩猟に由来する地名として考えることができる。「コブチ」とは首打(コウベウチ)が変化した語と言われ、野鳥や獣の首を打ちはさんで捕える罠(わな)を意味する。「クブチ」(弶)の語も獣を捕らえる罠の意味がある。「オソ」という罠の言語があり、上笹尾地区に「御側(おっそば)」の小字名がある。

相模原市に「古淵(こぶち)」の地名があり、近くに「鹿沼台」「淵野辺」の地名が見られる。「淵」の字から水に関する地名と見るではなく、沼地に獣を追い込めると足を沼地に取られ、身動きできないところを射止める狩猟場としての「コブチ」であったのであろう。

ここでは、「沼」が狩場としての罠であり、同様に小渕の「沢」が「カクラ」という狩場としての罠の装置となっている。小淵沢の由来を、「コブチ」の沢、すなわち「狩猟場としての沢」の意味でとして、「小渕」と「沢」を一体に理解することができる。

諏訪大社では、酉の祭り(四月十五日)に鹿七十五頭、猪などを奉納する神事が行われていた。諏訪に近隣する小淵沢町も、その諏訪信仰の影響を受けたであろう。下笹尾地区の諏訪神社由緒に諏訪明神の御狩場として、篠の弓矢を諏訪大社に奉納する伝承ある。富士見町の立場川の「立場」は「タチバ」で、セコが追い出した獲物を射止める場所とも言われる。

白州町の教来石に由来する大磐石(だいばんじゃく)の上で、諏訪明神と蘭渓道隆禅師との問答の昔話があり、双方が鹿猪(しか)の肉を食した後、神・仏のどちらが成仏させる力があるかを競う話しである。

このように小淵沢の地名を狩猟地名と考えることで、諏訪信仰による狩猟文化などを通して地域全体の中で歴史・文化の足跡に改めて眼を向けることができる。

まちを学ぶシリーズ6 水原 康道(高福寺住職)ーこだわりの「小淵沢」の地名について(一)

小淵沢の地名は、「小淵池」に由来する伝承がある。小淵池は、小淵沢町総合グランド駐車場北の杉木立の場所にある。直径5~6メートル程の小さな池で、流れ出る川はなく、一年中水量は一定している。

小淵池は、実用性より宗教性の重視した場所といえる。そのために雨乞い祈願が行われたり、椀貸伝承(注1)がある。また、諏訪湖の水が増減すると小淵池も同じように変化するという、諏訪湖と小淵池が地下水でつながっている通底伝承もある。東大寺のお水取りの水は若狭国から地底を通じているというように、全国的に見られるこの伝承は不老長寿の常世の国に通じる信仰が背景にある。地底から湧き出る水は常世の国からもたらされる不老長寿の若水と思われ、また椀貸伝承のようにこの世に様々な福をもたらされるという。

このように池(井)は神秘的な場所とされ、水の祭祀をする神聖な場所であった。789年、甲斐国の渡来者は玉井・大井・中井などに改姓している。「井」の字を使ったのは、「井」の持つ聖なる水の呪力を姓名に注ぐためとみられる。韮崎市藤井町にある「駒井」の地名も渡来系に由来するとされ、また「藤井」の地名の命名も同じ理由からで、「井」の付く名前・地名は佳名(縁起の良い名前)とされたのであろう。

小淵沢の歴史に深く関わった小井詰氏の姓に、「井」の字が取り入れられたのも、同様の理由からであろう。水の湧く所は常世国に通じて、その神々の加護を受ける所であり、その場所に君臨することが地域に政治的、宗教的権威を示す、一種のステイタスであった。

天神森―山宮天神(のち現在地の北野神社となる)と大宮神社は尾根状に位置し、大宮神社には北野神社の神主・小井詰氏の墳墓あったという伝承(前号参照)がある。小淵池は、この尾根と北野神社の中間に位置し、約150メートル程の距離である。小淵池は「殿平」という地名の中にあって、小井詰氏後の領主の旧居住地跡とみられ、また隣接地に「天沢林」という字名あり、天沢寺というお寺の旧跡地という伝承がある。小淵池を中心とする一帯は、小淵沢の地名発祥地として語るにふさわしい場所で、政治的・宗教的に重要な地域であったと思われる。

以上のような「小渕の池」の伝承からの説明によると、小淵沢の地名は、「水」を共通とする「小渕」と「沢」とを合わせた地名と考えられる。「小渕」と「沢」を一体に解釈すると、「小さな淵のある沢」という地名になり、沢に小さな淵があることになる。これでは現状の地形に合わない。分離して解釈すると「小渕の池」と「沢」は別々の存在となるので、「小渕池」を小淵沢の地名由来の説明にならない。

このように小渕沢の地名を「小渕池」に由来するという   伝承では、「小渕」と「沢」の関係を十分説明できないので、次回はこの関係を再度考えることにする。

(注1)膳椀が必要の場合、その数を頼むと貸してくれるという沼や淵の話。全国的に分布する。しかし返却しなかった場合、その後は貸さなくなったという。

(注2)常世の国は古代日本で信仰され、海の彼にある一種の理想郷、不老不死・若返りなどと結び付けられた日本神話の他界観。古事記、日本書紀、万葉集、風土記などに記述がある。

まちを学ぶシリーズ5ーこだわりの北野天神社の歴史

 小井詰氏の伝承

前回、小井詰氏は、北野天神社の神主であると同時に、小淵沢村の開発領主的な存在として井詰湧水の水利権を通じて地域に政治的影響力を行使してきたことを述べてきた。今回、小井詰氏の伝承を通じて、その姿を考えてみたい。

その伝承のすべてに共通しているのは、漂泊・逃亡して、この地に隠棲するという伝承である。

伝承一 平忠常を平定した源頼信が甲斐国に退在し、永承年中(一〇四六~一〇五三)この地に隠住、安元二年(一一七六)泉原に移り、姓を小井詰と称したという。

伝承二 泉親衡(いずみちかひら)は、建暦三年(一二一三年)鎌倉幕府御家人で信濃源氏の泉小次郎親衡が源頼家の遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立し執権北条義時を打倒しようとしたが失敗し、逃亡行方不明となる。親衡は北野神社に隠棲、神主の跡目を継ぐという伝承がある。

伝承三 小笠原分流十三世・吉基は、入贅(にゅうせい)(入婿)し神主になる。初祖小笠原長清より十三世に該当する者に松尾小笠原(伊那)の小笠原宗基が存在する。宗基は戦に敗れ、永正三年(一五〇六)、行方不明となる。宗基と吉基は、「宗」と「吉」の一字が異なるが同一人物の可能性がある。この真偽は別にして、現在も北野天神社の梅鉢の家紋と小笠原氏の三階菱の家紋を使用しており、小笠原氏から北野天神社の神主に迎えていたと思われる。

伝承四 諏訪頼有(すわよりあり)は、応永十八年(一四一一)諏訪上社十一代大祝に即位し、翌応永十九年に北野神社へ鰐口(わにくち)を奉納されたと見られる。ところが、奉納した頼有は、永享元年(一四二九)諏訪を去り、同年甲斐にて死去している。

以上見てきたように、北野天神社には敗残者である隠棲者を迎え入れる伝承が積み重ねられている。加えて、伝承一・二・三はルーツを名門源氏に求め、小井詰氏は貴種尊重の権威を保持してきた家系である。

いったいなぜ、逃亡・隠棲者を保護する伝承があるのだろうか。寺社には、世俗権力を排し、追捕された者を保護する宗教的権威を保持するアジール(庇護聖地)という伝統がある。

北野天神社はアジールという伝統的権威を堅く保持し、隠棲者保護にこだわり続けて来た神社であったと思われる。

このように考えることができれば、菅原道真が祭神として祀られたのは、無実の罪によって太宰府に流された菅原道真を隠棲者の守護神として信仰されたためである。小井詰氏が進藤氏を伴い、京都を追われ、菅原道真の神像を持って来たという伝承が残されているが、久保地区で唯一一軒のみの小井詰姓と進藤姓の置かれた集落状況を見るとあながち荒唐無稽とも言えないような感じがする。

小井詰氏は、源氏の血筋を繫ぎ重ねてきた家門の政治的権威をバックに、逃亡者・隠棲者を保護するという宗教的に高いステイタスを持ち、北野天神社の宗教的権威を村の内外に示してきたと思われる。

正応三年(一二九〇)浅原為頼が禁中に乱入し、その追従者が隠棲し、今井氏(上笹尾)を名のるという伝承があるのは、アジールという価値観が小淵沢地域一帯に共有されていたのであろう。

まちを学ぶシリーズ4 – こだわりの小淵沢の歴史

小淵沢村の誕生

 

小淵沢町に最初に鍬おろした人々は、二つの地域を形成していた。この二つの地域は、矢の堂―大宮神社の縦状の尾根(尾根地区の地名の由来)である分水嶺の地形によって東西に分けられている。ひとつは、井詰(いづめ)湧水(すずらん池の北側)から自然流下した甲信アルミ南一帯の流域を開発した地域で、もうひとつは、根山湧水(花パークの北側)から自然流下した川は小淵沢小学校西側に流れ、その流域一帯を開発した地域である。

ところが、「正中元年(1324)水源地ヨリ水田灌溝口堀リ 元野之高嶺中央ヲ割り水路ヲ通ス(中略)赤松家蔵ム書中ニ見エタリ」とあり、この井詰用水の横堰の開削が行われ、旧小淵沢全域に水田用水が行き渡った。この横堰を通称、「五百石堰」とも言われる。

自然流化の自然集落から横堰の水路によって結ばれた村作りが始められた。尾根区内に「じょうしょう村」「ごんだい村」の地名が慶長検地帳に見えて、少なくとも室町時代には散在していた村があり、鎌倉時代においても湧水の自然流下する水域に、こうした小集落の村が多く散在していたと思われる。東西に二分されていた地域は同じ井詰湧水の恩恵を受ける共同体となって、一つに地域として統合されて行った。小淵沢村の誕生である。井詰湧水を横堰によって開削する水田開発事業は、旧小淵沢地内に散在していた集落を結合し、小淵沢村の形成に向かわせる重要な原動力をもっていた。

 

天神森について

 

天神森は、この尾根の北端(五味克彦氏宅裏側のカラマツ林の場所)に位置し、「天神森」の地名が残されている。この尾根の南端にも「天神前」「西天神」の地名がある。南北の二つの場所で天神が祀られていた。統合以前において、天上から降りてくる神として、「天神」を祭神として祀る信仰を両地域から集めていた。東西に二つの地域に分ける境界としての尾根は、宗教的意味をもち、神を祀る神聖な場所であり、両地域の信仰の軸となっていた。

その後も、天神森―昌久寺―矢の堂―大宮神社―天神前―八幡山(旧高福寺跡)などの寺院・神社や地名が一直線上に置かれるようになった。

『甲斐地誌略』(県立図書館蔵)に、上庄村の西一帯の地を天神森と称し、口碑に日本武尊命が東征の帰途に休息し、この霊跡に社を創建し山宮天神と称し、その後天神森の社(やしろ)は北野天神に移されたという記述がある。

天神森は、「山宮天神」が祀られた神社が置かれた場所であった。祭神としての天神は日本武尊命(やまとたけるのみこと)に置きかえられて、のち久保地区の北野天神社に祭祀が移転され、菅原道真が祭神に加えられた。祭祀権者は神主小井詰氏であった。

「小井詰氏伝承」に大宮神社に小井詰氏の墳墓があると伝えられていることから、小井詰氏が山宮天神と大宮神社の祭祀を司る神主であった。「山宮」と「大宮」は一対の関係で、民俗学でいう〈山宮―里宮〉の関係である。春に山から里に下り田の神となり、秋に里から山に帰り山の神になるという、農耕の神が春秋に往来する考えである。

神主小井詰氏は、山宮天神の祭祀者として尾根上の〈山宮―大宮〉の祭祀軸を統括し、同時に政治権力者として井詰湧水一帯に支配を及ぼした。やがて井詰湧水による地域開発を進めながら勢力を扶植して行き地域支配者となり、旧小淵沢村を統合する政治的役割を果たした。

次回は、小井詰氏に伝わる伝承から北野神社ついてお話しをします。

まちを学ぶシリーズ3 – こだわりの雷(蛇)信仰

前回において、火の神によってイザナミ命の〈陰=ほと〉を焼かれて亡くなり、夫のイザナギ命が黄泉の国を訪れた時に見た妻イザナミ命の体に取り付いた八つの雷の姿が八雷神(やくさのいかづちのかみ)であることを述べた。この八雷神が八ヶ岳の祭神の一つに加えられた理由は、天空から落ちてきた弓矢によって二つに裂かれたと想像されるV字形の巨石の姿が、大地の母なる神の〈陰=ほと〉に弓矢が当たったイメージと重なるためである。

落ちてくる弓矢は、落雷のイメージにつながって行く。雷は雨を降らせ、稲光を発します。ギザギザに蛇行する姿は、蛇を連想する。八雷神は死者を守る神である同時に蛇神ともされる。

八雷神は蛇神として、雨乞いの神(水神信仰)として信仰されて行く。三ッ頭の山名は、三頭の牛や馬の頭を雨乞いのために権現岳に供えた形に由来する。牛首の奉納は、牛を殺して漢神(からかみ=渡来の神)に供える雨乞いの儀礼である。清里から赤岳へ登る真鏡寺尾根の牛首山も雨乞いに由来する山名である。

猟師が白蛇を助けると、そのお礼で湧水が湧き出るという伝承が南麓一帯にある。小渕沢町の大滝神社湧水・大泉町の大泉勇水と八衛門湧水・高根町の東井出の湧水・長坂町の三分の一勇水に白蛇伝承が残されている。長坂町の「白井沢」の地名も、白蛇による鉄砲水・山崩れに由来するという(『甲斐国志』)。

八ヶ岳南麓は豊かな湧水に恵まれた地域で、この地域一帯は「逸見」と呼称されてきた。古代において逸見庄と言われ、波美臣(はみのおみ)の領地であったという。逸見は、蛇が転訛(てんか)した波美に由来するという(『甲斐国志』)。市河荘(市川三郷町)から、この南麓に居を構えた甲斐源氏の祖・清光は、この「逸見(波美)」の地名・家名を襲名して、「逸見清光」と名のる。古代逸見氏の名前に潜む神秘性と支配の正当性を継承するためである。武田信虎が甲斐国を統一するまで、逸見氏の一族は武田氏との抗争を繰り返す。それは、逸見氏が伝統的権威を強く固持し、甲斐源氏の祖・清光の嫡子である本流を自負する意識があったからであろう。

このように、八ヶ岳の祭神の八雷神の蛇神性は、歴史・文化・信仰に広く影響を及ぼし、八ヶ岳南麓地域にこだわりの精神的世界を作り上げてきた。

 

まちを学ぶシリーズ2 – こだわりの八ヶ岳の神々

八ヶ岳の中心は権現岳であり、二つに裂かれた巨石が御神体であることを前回述べた。

権現岳に八ヶ岳の祭神は、磐(いわ)長(なが)姫(ひめの)命(みこと)と八(やくさの)雷神(いかづちのかみ)である。『古事記』『日本書記』に神話に見られる神々である。なぜこの二つの神が祀られたのか。それは、二つに裂かれた巨石の姿こそ二つの神を象徴するものであった。神々の起こりは、八ヶ岳南麓の最初に定住した古代人の巨石の出会いから始まる。人々はどのような気持ちで巨石を感じたのか。その姿の神秘性と驚きから神の存在を感じ、二つに裂かれた巨石は神のなせる技であると信じられた。どのようにしてこの頂上に出現したのか。巨石の姿の由来を尋ねようと考えた。

古代人の謎解きである。権現岳山頂の巨石は、大地の中から生まれ出て来た。母なる大地から生命を生み出す力を宿す神の姿を想像した。狩猟・採集の豊穣・多産をもたらす山の神として巨石に対する信仰が生まれた。この磐石堅固な巨石のように永遠の生命を司る磐(いわ)長(なが)姫(ひめの)命(みこと)の神にたとえられ、権現岳の祭神の一つとなった。二つに裂かれた巨石のV字形は(写真参照)、古代人の狩猟生活において弓矢の形にイメージされた。その弓矢が天空から巨石に落ち二つ裂かれ、二つ裂かれた巨石は、大地の母なる神の<陰=ほと>に弓矢が当たった形と想像された。神話の世界のイザナミ命が火の神を産み、<陰=ほと>を焼かれて亡くなり、黄泉の国へ行くことになる。夫のイザナギ命が黄泉の国を訪ね、その時見た妻イザナミ命の体に取り付いた八つの雷の姿が八(やくさの)雷神(いかづちのかみ)である。八雷神が黄泉の国・死者の国の神となる。二つに裂けた姿が八雷神と連想され、祭神の一つに加えられた。

八ヶ岳の祭神・磐(いわ)長(なが)姫(ひめの)命(みこと)と八(やくさの)雷神(いかづちのかみ)は、神話の世界に彩(いろど)られた<死と誕生(再生)>の儀礼を司る神々であり。八ヶ岳南麓という限られた大地の息吹から誕生した神々であり。八ヶ岳南麓の大地に住む、人や動物の生命を育む豊かな地域を守り続けて来たこだわりの神々であった。

権現岳の二つに裂かれ巨石

⇧権現岳の二つに裂かれ巨石

(高福寺住職・水原康道)

まちを学ぶシリーズ1 – こだわりの地域歴史学

八ヶ岳南麓という地域。私にとって60年余り聞き慣れた親しみのある言葉である。

この「八ヶ岳南麓」という語感の響きが気持ちいい。そこに住む私のアイデンティの立ち位置があり、どことなく安心感を持つことができるからである。それは、八ヶ岳南麓という限られた地域と八ヶ岳の山々との一体となった自然の姿が与えてくれたものであり、八ヶ岳南麓から仰ぎ見る山々に秘められている神秘的な信仰の世界によって培われたものであろう。

その山々には、赤岳は含まれない。八ヶ岳南麓は、赤岳が見えない地域だからである。つまり、赤岳を除く権現岳を中心とする峰々が本来の八ヶ岳の姿である。権現岳より南に流れ下り裾野が広がる南麓から見る「赤岳の見えない八ヶ岳」こそ、ふるさとの山である。遠い昔、南麓に定住した人々が描いていた八ヶ岳の最初の原風景である。ここには、赤岳を主峰とする現在の八ヶ岳の姿はない。

権現岳の頂上は、這(はい)松(まつ)がせり上がり、二つに裂かれた巨石がある。この巨石が八ヶ岳の御神体である。こうした山頂の景観のある権現岳こそ八ヶ岳の中心であり、八ヶ岳の神々が降臨するに相応(ふさわ)しい神聖な場所である。権現岳に登ったことのある人なら、南麓から頂上の尖がり状の巨石を確認することができる。つまり毎日麓から仰ぎ見ながら豊穣を祈る信仰の山であった。また八ヶ岳は狩猟・採集の恵みを得る里山であり、八ヶ岳とその南麓がひとつに結ばれた日常の生活圏であった。

このように、昔も今も変わらない八ヶ岳の原風景を想像する時、八ヶ岳南麓の山の信仰や里の生活の匂いを伝えてくれる不思議な山である。「山と里」の一体化した独特の精神文化を見ることができ、八ヶ岳南麓という限られた地域から八ヶ岳を見るこだわりから来る認識である。これが八ヶ岳を見る原点であり、地域の活性化を図ろうとする一つの枠組みが与えられる。

(高福寺住職・水原康道)