小井詰氏の伝承
前回、小井詰氏は、北野天神社の神主であると同時に、小淵沢村の開発領主的な存在として井詰湧水の水利権を通じて地域に政治的影響力を行使してきたことを述べてきた。今回、小井詰氏の伝承を通じて、その姿を考えてみたい。
その伝承のすべてに共通しているのは、漂泊・逃亡して、この地に隠棲するという伝承である。
伝承一 平忠常を平定した源頼信が甲斐国に退在し、永承年中(一〇四六~一〇五三)この地に隠住、安元二年(一一七六)泉原に移り、姓を小井詰と称したという。
伝承二 泉親衡(いずみちかひら)は、建暦三年(一二一三年)鎌倉幕府御家人で信濃源氏の泉小次郎親衡が源頼家の遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立し執権北条義時を打倒しようとしたが失敗し、逃亡行方不明となる。親衡は北野神社に隠棲、神主の跡目を継ぐという伝承がある。
伝承三 小笠原分流十三世・吉基は、入贅(にゅうせい)(入婿)し神主になる。初祖小笠原長清より十三世に該当する者に松尾小笠原(伊那)の小笠原宗基が存在する。宗基は戦に敗れ、永正三年(一五〇六)、行方不明となる。宗基と吉基は、「宗」と「吉」の一字が異なるが同一人物の可能性がある。この真偽は別にして、現在も北野天神社の梅鉢の家紋と小笠原氏の三階菱の家紋を使用しており、小笠原氏から北野天神社の神主に迎えていたと思われる。
伝承四 諏訪頼有(すわよりあり)は、応永十八年(一四一一)諏訪上社十一代大祝に即位し、翌応永十九年に北野神社へ鰐口(わにくち)を奉納されたと見られる。ところが、奉納した頼有は、永享元年(一四二九)諏訪を去り、同年甲斐にて死去している。
以上見てきたように、北野天神社には敗残者である隠棲者を迎え入れる伝承が積み重ねられている。加えて、伝承一・二・三はルーツを名門源氏に求め、小井詰氏は貴種尊重の権威を保持してきた家系である。
いったいなぜ、逃亡・隠棲者を保護する伝承があるのだろうか。寺社には、世俗権力を排し、追捕された者を保護する宗教的権威を保持するアジール(庇護聖地)という伝統がある。
北野天神社はアジールという伝統的権威を堅く保持し、隠棲者保護にこだわり続けて来た神社であったと思われる。
このように考えることができれば、菅原道真が祭神として祀られたのは、無実の罪によって太宰府に流された菅原道真を隠棲者の守護神として信仰されたためである。小井詰氏が進藤氏を伴い、京都を追われ、菅原道真の神像を持って来たという伝承が残されているが、久保地区で唯一一軒のみの小井詰姓と進藤姓の置かれた集落状況を見るとあながち荒唐無稽とも言えないような感じがする。
小井詰氏は、源氏の血筋を繫ぎ重ねてきた家門の政治的権威をバックに、逃亡者・隠棲者を保護するという宗教的に高いステイタスを持ち、北野天神社の宗教的権威を村の内外に示してきたと思われる。
正応三年(一二九〇)浅原為頼が禁中に乱入し、その追従者が隠棲し、今井氏(上笹尾)を名のるという伝承があるのは、アジールという価値観が小淵沢地域一帯に共有されていたのであろう。