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いいこと探訪4 小淵沢ペンション振興会-「風のたより」編集会議

小淵沢ペンション振興会が発行する「八ヶ岳 風のたより」。秋深い11月の編集会議と12月の貼付作業にお邪魔させていただいてきました。

1997年の夏に創刊された「風のたより」は季節ごとに発行され、おじゃまさせていただいた時で62号、既にこの春63号が発行されました。(小淵沢駅前観光案内所などでも手に入ります。)

年月を重ねる中で、時代の流れに沿うように、参加するペンション総数は少なくなったものの、活気ある編集光景を拝見させていただくことが出来ました。

編集会議は、メンバーであるペンションオーナーの方々の井戸端的な情報交換から始まり、記事構成が行われ、担当記事などの役割分担確認が行われます。貼付け作業では、パソコンでの文字起こし切り貼り作業、そして当誌の特徴とも言える小見出し文字が、最後に書き加えられ、印刷まで分担され完成します。

和気藹(あい)々と歌も飛び出す編集作業からは、紙面からも溢れる楽しさを感じます。

内容は、季節ごとに楽しめるこの八ヶ岳の情報や文化などが満載で、この地に訪れる人がここを楽しんでいただくには、欠かせない情報誌の一つと言えます。

こういったまちづくりに欠かせない場がありましたら、是非情報をお寄せください。

(まちこぶ広報)

地方自治はおもしろい1-地方自治の主人公は市民

日本では江戸時代も、明治政府ができてからも市民自らが「政府をつくる」という経験をしないまま、上からの制度が押し付けられてきました。政府は我々の「上」にある存在として国や地方を統治し続けてきました。明治維新は大きな体制の転換ではあったのですが、「市民革命」と呼べるようなものではなかったのです。山県有朋が内務大臣のとき戦前の地方制度の根幹は定まったのですが、国の意向が上意下達でいかに迅速に、しかも徹底するかが彼の関心事でした。戦後の民主化の中で憲法が改正され、現行憲法のもとで地方自治制度ができましたが、それでも私たちが地方政府をつくったわけではなく、戦前と同様全国一律に国が地方自治体をつくりました。

そんなことは当たり前と私たちは思っていますが、米国では地方自治体は地域の人たちが「自治体を創ろう」と都市宣言を行って初めて創られます。自治体が必要ないと皆が考えていれば、自治体は存在しません。自治体は自らが選びとるものです。どんな仕組みで自治体経営をしていくかも都市宣言の中で決めることになっています。イギリスでも自治体よりもっと狭い地域を対象にした「パリッシュ」という自治組織が認められていて、自分たちで行うことを自分たちで選んで活動しています。パリッシュをつくるかどうかもやはりその地域の人たちが自分で決めるのです。

私たちは「なぜ、地方自治体が必要なのだろうか」「なぜ、行政があるのだろうか」と考える機会を持たないまま、制度として上から与えられたことに従ってきました。今ではそんなことはなくなっていますが、少し前まで役人はとてもいばっていましたし、いばっていないにしても市民に対して「**をだれかにしてやる」などと主客転倒したことを平気でいっていました。権力や権限を握っているのは自分たちであり、できるだけ市民を遠ざけてきました。

もし今から自分たちで市の政府をつくるとしたら、行政は市民の「代行機関」にすぎないと考えることから出発することです。行政が全く存在しない状態を想定してみてください。同じ集落に何軒かの家があれば、そこに住む人たちは社会生活をするために共同で処理していくことが必要になってきます。できるだけ自分たちで行えることは行いますが、すべてそれで済むわけではありません。広範囲や大規模な事業を行おうとすると専門家やその仕事に専念する人が必要になってきます。そうした人たちを共同で雇い入れ、仕事を「代行」してもらいます。それが行政の出現です。そのかわり行政で必要な経費を互いに負担しようというのが税です。そうした負担をすることで役所はできあがっていると考える事が重要です。そして、その行政が自分たちの考えているように仕事をしているかどうかをチェックする機能も必要になってきます。あくまでも主人公(主権者)は我々市民であって、「先ず役所ありき」ではないのです。

 

著者紹介:西寺雅也氏

名古屋学院大学経済学部総合政策学科教授・山梨学院大大学院非常勤講師・前多治見市長。

昨年3月まで、山梨学院大学教授として山梨を拠点に、北杜市内にも市民講座の講師として度々通われ、この地への理解も深い。

まちを学ぶシリーズ4 – こだわりの小淵沢の歴史

小淵沢村の誕生

 

小淵沢町に最初に鍬おろした人々は、二つの地域を形成していた。この二つの地域は、矢の堂―大宮神社の縦状の尾根(尾根地区の地名の由来)である分水嶺の地形によって東西に分けられている。ひとつは、井詰(いづめ)湧水(すずらん池の北側)から自然流下した甲信アルミ南一帯の流域を開発した地域で、もうひとつは、根山湧水(花パークの北側)から自然流下した川は小淵沢小学校西側に流れ、その流域一帯を開発した地域である。

ところが、「正中元年(1324)水源地ヨリ水田灌溝口堀リ 元野之高嶺中央ヲ割り水路ヲ通ス(中略)赤松家蔵ム書中ニ見エタリ」とあり、この井詰用水の横堰の開削が行われ、旧小淵沢全域に水田用水が行き渡った。この横堰を通称、「五百石堰」とも言われる。

自然流化の自然集落から横堰の水路によって結ばれた村作りが始められた。尾根区内に「じょうしょう村」「ごんだい村」の地名が慶長検地帳に見えて、少なくとも室町時代には散在していた村があり、鎌倉時代においても湧水の自然流下する水域に、こうした小集落の村が多く散在していたと思われる。東西に二分されていた地域は同じ井詰湧水の恩恵を受ける共同体となって、一つに地域として統合されて行った。小淵沢村の誕生である。井詰湧水を横堰によって開削する水田開発事業は、旧小淵沢地内に散在していた集落を結合し、小淵沢村の形成に向かわせる重要な原動力をもっていた。

 

天神森について

 

天神森は、この尾根の北端(五味克彦氏宅裏側のカラマツ林の場所)に位置し、「天神森」の地名が残されている。この尾根の南端にも「天神前」「西天神」の地名がある。南北の二つの場所で天神が祀られていた。統合以前において、天上から降りてくる神として、「天神」を祭神として祀る信仰を両地域から集めていた。東西に二つの地域に分ける境界としての尾根は、宗教的意味をもち、神を祀る神聖な場所であり、両地域の信仰の軸となっていた。

その後も、天神森―昌久寺―矢の堂―大宮神社―天神前―八幡山(旧高福寺跡)などの寺院・神社や地名が一直線上に置かれるようになった。

『甲斐地誌略』(県立図書館蔵)に、上庄村の西一帯の地を天神森と称し、口碑に日本武尊命が東征の帰途に休息し、この霊跡に社を創建し山宮天神と称し、その後天神森の社(やしろ)は北野天神に移されたという記述がある。

天神森は、「山宮天神」が祀られた神社が置かれた場所であった。祭神としての天神は日本武尊命(やまとたけるのみこと)に置きかえられて、のち久保地区の北野天神社に祭祀が移転され、菅原道真が祭神に加えられた。祭祀権者は神主小井詰氏であった。

「小井詰氏伝承」に大宮神社に小井詰氏の墳墓があると伝えられていることから、小井詰氏が山宮天神と大宮神社の祭祀を司る神主であった。「山宮」と「大宮」は一対の関係で、民俗学でいう〈山宮―里宮〉の関係である。春に山から里に下り田の神となり、秋に里から山に帰り山の神になるという、農耕の神が春秋に往来する考えである。

神主小井詰氏は、山宮天神の祭祀者として尾根上の〈山宮―大宮〉の祭祀軸を統括し、同時に政治権力者として井詰湧水一帯に支配を及ぼした。やがて井詰湧水による地域開発を進めながら勢力を扶植して行き地域支配者となり、旧小淵沢村を統合する政治的役割を果たした。

次回は、小井詰氏に伝わる伝承から北野神社ついてお話しをします。

小淵沢駅周辺地域活性化計画-3月17日市民説明会

生活に欠かせない駅舎を含んだ駅前広場の整備事業に伴うこの説明会、生涯学習センターこぶちさわにて、15時より17時までの予定を30分ほど延長して開催されました。

北杜市建設部まちづくり推進課より部長課長担当計5名と、東京芸術大学より3名、市民は昨年9月1日のワークショップに並ぶ参加があり、未だ関心の高さが伺えました。

前半はまちづくり推進課の当事業担当から、今後のスケジュール及び計画内容の説明、予てからの懸案事項の説明などが行われ、質疑事項へと移りました。

質疑に関しては、「配置計画に関するもの」「駅舎位置を南側へ移動する新案」「南北自由通路への根強い要望」「市とJRの費用負担割合に関するもの」「出席市民の年齢層について」「JR側からの説明を求める声」など、多岐に渡りましたが、東京芸大側への質疑はなく、根本にある市民の理解という点で問題が根強く、事業の運び方に課題を残しました。

この結果からも今後もこの様な機会が求められるものの、工程計画では来年度は実施設計に進む必要があり、市当局も市民も、対応は急を要した格好となりました。

八ヶ岳南麓風景街道の会主催-第3回赤白防護柵塗替えボランティア

八ヶ岳周辺の自然豊かな風景に癒されるために、多くの人が訪れ居を移して住まわれる方も多いなど、自然景観の魅力がとても高い地域です。

国道などでも柵や標識の支柱など、ベージュや焦げ茶など10YR系の自然景観に馴染む色合いへの変更が進んでいますが、八ヶ岳南麓風景街道の会(まちこぶは民間パートナーシップ団体)は、更なる景観向上活動の一つとして、防護柵の茶色化に取組でいます。

色彩学に基づき国の防護柵設置基準も景観形成に配慮を求めるように平成16年3月に改訂され、赤白柵の設置は減少したものの、元の強調された色合いからの塗替えは、視認性が劣る印象を拭えず理解を得難い一面があり、現在は一部反射板テープを貼ることで、視認性理解との両立を図っています。

こういった課題への対処は、官民ともに行う毎月の会議を中心に、それぞれが出来ることに取り組んでいます。この取り組みは地域ブランドの向上につながり、地域の活性化も見込めるものです。

今回の塗替え場所は、大泉町谷戸豊武・富谷の養蚕形式古民家が続く風情ある地域でした。塗替え後の町並み散策にお出かけください。

ご参加の方々には風景街道の一員として、厚く御礼申し上げます。イベント告知は、市の広報及びメール・SNSなどで行っています。次回は11月予定です。ご一緒にいかがですか。

市民投書 – シルバー川柳

最近、川柳にはまっている。川柳といえば毎年必ず話題になるのが、「サラリーマン川柳」だ。サラリーマンの今日的悲哀を詠ったもので人気を呼んで来た。

ただ、私が今回突然、川柳にはまったきっかけは、昨秋出版された「シルバー川柳」(ポプラ社)だ。この本、あっという間に版を重ね、大ベストセラーになった。因みに副題は『誕生日 ローソク吹いて 立ちくらみ』この3月には早くも続編「シルバー川柳2」も出た。『「アーンして」むかしラブラブいま介護』が副題だ。

今や四人にひとりがお年寄りという超高齢社会のニッポン。かく言う私もはるか昔にその一員となっている。年金に医療に介護にと、お国の財政の穀潰し(ごくつぶし)となっている我々シルバー世代を見る世間の眼はだんだん冷たくなってきている。ただこの世代、金は持っているということで家族にその金をあてにされるのは勿論、借金大国のお国の政府からも財布にてを突っ込まれかねない状況なのだ。「戦後の焼け野原から働きづめに働いてこんな豊かなニッポンをつくりあげて来たのは俺たちだ。年金保険料も健康保険料もちゃんと納めて来た。なんか文句があるか?」などと居直ってみてもはじまらない。まごまごしていると後期高齢者などと仕分けされ、あの世行きの待合室に入れられてしまう。

こうなったらもう残りの人生、笑いとばして行くしかない。そこで登場したのがこの「シルバー川柳」だ。余談だが、我が国には「落語」といい、この「川柳」といい、アナログの極みとも言うべき素晴らしい大衆向けのユーモア芸術が江戸時代以来ずっと息づいている。日本人でよかったと思うのは何も食べ物のことだけではない。それで私も同じ日本人だからということで虚空(こくう)をじっとみつめてみたがなかなかいい句は浮かんでこない。それでもようやく、昨年末から世の中の空気が突然入れ替わったことに思い至ると、頭の中で川柳のリズムが動き出した。生来、政治やこれを伝えるメディア(=マスコミ)を余り信用し過ぎるとろくなことはないと世を拗(す)ねて来た性格がこれに敏感に反応し、5・7・5が湧き出して来た。

アベノミクス 老いも若きも ハイテンション

回春に 新薬出たぞ アベノミクス

手を挙げて みんなで渡ろう アベリスク

TPP みんなで渡れば こわくない

おあとが宜しいようで……

以上ハイカイ寸前で八ヶ岳山麓に棲む独居老人のひとりごとでした。

(詠み人知ラズ)

まちを学ぶシリーズ3 – こだわりの雷(蛇)信仰

前回において、火の神によってイザナミ命の〈陰=ほと〉を焼かれて亡くなり、夫のイザナギ命が黄泉の国を訪れた時に見た妻イザナミ命の体に取り付いた八つの雷の姿が八雷神(やくさのいかづちのかみ)であることを述べた。この八雷神が八ヶ岳の祭神の一つに加えられた理由は、天空から落ちてきた弓矢によって二つに裂かれたと想像されるV字形の巨石の姿が、大地の母なる神の〈陰=ほと〉に弓矢が当たったイメージと重なるためである。

落ちてくる弓矢は、落雷のイメージにつながって行く。雷は雨を降らせ、稲光を発します。ギザギザに蛇行する姿は、蛇を連想する。八雷神は死者を守る神である同時に蛇神ともされる。

八雷神は蛇神として、雨乞いの神(水神信仰)として信仰されて行く。三ッ頭の山名は、三頭の牛や馬の頭を雨乞いのために権現岳に供えた形に由来する。牛首の奉納は、牛を殺して漢神(からかみ=渡来の神)に供える雨乞いの儀礼である。清里から赤岳へ登る真鏡寺尾根の牛首山も雨乞いに由来する山名である。

猟師が白蛇を助けると、そのお礼で湧水が湧き出るという伝承が南麓一帯にある。小渕沢町の大滝神社湧水・大泉町の大泉勇水と八衛門湧水・高根町の東井出の湧水・長坂町の三分の一勇水に白蛇伝承が残されている。長坂町の「白井沢」の地名も、白蛇による鉄砲水・山崩れに由来するという(『甲斐国志』)。

八ヶ岳南麓は豊かな湧水に恵まれた地域で、この地域一帯は「逸見」と呼称されてきた。古代において逸見庄と言われ、波美臣(はみのおみ)の領地であったという。逸見は、蛇が転訛(てんか)した波美に由来するという(『甲斐国志』)。市河荘(市川三郷町)から、この南麓に居を構えた甲斐源氏の祖・清光は、この「逸見(波美)」の地名・家名を襲名して、「逸見清光」と名のる。古代逸見氏の名前に潜む神秘性と支配の正当性を継承するためである。武田信虎が甲斐国を統一するまで、逸見氏の一族は武田氏との抗争を繰り返す。それは、逸見氏が伝統的権威を強く固持し、甲斐源氏の祖・清光の嫡子である本流を自負する意識があったからであろう。

このように、八ヶ岳の祭神の八雷神の蛇神性は、歴史・文化・信仰に広く影響を及ぼし、八ヶ岳南麓地域にこだわりの精神的世界を作り上げてきた。

 

まちを学ぶシリーズ2 – こだわりの八ヶ岳の神々

八ヶ岳の中心は権現岳であり、二つに裂かれた巨石が御神体であることを前回述べた。

権現岳に八ヶ岳の祭神は、磐(いわ)長(なが)姫(ひめの)命(みこと)と八(やくさの)雷神(いかづちのかみ)である。『古事記』『日本書記』に神話に見られる神々である。なぜこの二つの神が祀られたのか。それは、二つに裂かれた巨石の姿こそ二つの神を象徴するものであった。神々の起こりは、八ヶ岳南麓の最初に定住した古代人の巨石の出会いから始まる。人々はどのような気持ちで巨石を感じたのか。その姿の神秘性と驚きから神の存在を感じ、二つに裂かれた巨石は神のなせる技であると信じられた。どのようにしてこの頂上に出現したのか。巨石の姿の由来を尋ねようと考えた。

古代人の謎解きである。権現岳山頂の巨石は、大地の中から生まれ出て来た。母なる大地から生命を生み出す力を宿す神の姿を想像した。狩猟・採集の豊穣・多産をもたらす山の神として巨石に対する信仰が生まれた。この磐石堅固な巨石のように永遠の生命を司る磐(いわ)長(なが)姫(ひめの)命(みこと)の神にたとえられ、権現岳の祭神の一つとなった。二つに裂かれた巨石のV字形は(写真参照)、古代人の狩猟生活において弓矢の形にイメージされた。その弓矢が天空から巨石に落ち二つ裂かれ、二つ裂かれた巨石は、大地の母なる神の<陰=ほと>に弓矢が当たった形と想像された。神話の世界のイザナミ命が火の神を産み、<陰=ほと>を焼かれて亡くなり、黄泉の国へ行くことになる。夫のイザナギ命が黄泉の国を訪ね、その時見た妻イザナミ命の体に取り付いた八つの雷の姿が八(やくさの)雷神(いかづちのかみ)である。八雷神が黄泉の国・死者の国の神となる。二つに裂けた姿が八雷神と連想され、祭神の一つに加えられた。

八ヶ岳の祭神・磐(いわ)長(なが)姫(ひめの)命(みこと)と八(やくさの)雷神(いかづちのかみ)は、神話の世界に彩(いろど)られた<死と誕生(再生)>の儀礼を司る神々であり。八ヶ岳南麓という限られた大地の息吹から誕生した神々であり。八ヶ岳南麓の大地に住む、人や動物の生命を育む豊かな地域を守り続けて来たこだわりの神々であった。

権現岳の二つに裂かれ巨石

⇧権現岳の二つに裂かれ巨石

(高福寺住職・水原康道)

まちを学ぶシリーズ1 – こだわりの地域歴史学

八ヶ岳南麓という地域。私にとって60年余り聞き慣れた親しみのある言葉である。

この「八ヶ岳南麓」という語感の響きが気持ちいい。そこに住む私のアイデンティの立ち位置があり、どことなく安心感を持つことができるからである。それは、八ヶ岳南麓という限られた地域と八ヶ岳の山々との一体となった自然の姿が与えてくれたものであり、八ヶ岳南麓から仰ぎ見る山々に秘められている神秘的な信仰の世界によって培われたものであろう。

その山々には、赤岳は含まれない。八ヶ岳南麓は、赤岳が見えない地域だからである。つまり、赤岳を除く権現岳を中心とする峰々が本来の八ヶ岳の姿である。権現岳より南に流れ下り裾野が広がる南麓から見る「赤岳の見えない八ヶ岳」こそ、ふるさとの山である。遠い昔、南麓に定住した人々が描いていた八ヶ岳の最初の原風景である。ここには、赤岳を主峰とする現在の八ヶ岳の姿はない。

権現岳の頂上は、這(はい)松(まつ)がせり上がり、二つに裂かれた巨石がある。この巨石が八ヶ岳の御神体である。こうした山頂の景観のある権現岳こそ八ヶ岳の中心であり、八ヶ岳の神々が降臨するに相応(ふさわ)しい神聖な場所である。権現岳に登ったことのある人なら、南麓から頂上の尖がり状の巨石を確認することができる。つまり毎日麓から仰ぎ見ながら豊穣を祈る信仰の山であった。また八ヶ岳は狩猟・採集の恵みを得る里山であり、八ヶ岳とその南麓がひとつに結ばれた日常の生活圏であった。

このように、昔も今も変わらない八ヶ岳の原風景を想像する時、八ヶ岳南麓の山の信仰や里の生活の匂いを伝えてくれる不思議な山である。「山と里」の一体化した独特の精神文化を見ることができ、八ヶ岳南麓という限られた地域から八ヶ岳を見るこだわりから来る認識である。これが八ヶ岳を見る原点であり、地域の活性化を図ろうとする一つの枠組みが与えられる。

(高福寺住職・水原康道)